又信会東京支部
 
Privacy policy
会員紹介 > YOU HOP Interview 第1回 笠井和彦さん 1/2
YOUHOP Interview


YOU HOP Interview 第1回

ソフトバンク株式会社取締役 笠井和彦さん(経済7回)
又信会東京支部支部長


司会:
本日は、ご多忙の笠井支部長をソフトバンク・本社に訪ねての、記念すべきYOU HOP第1回インタビューでございます。

Q. それでは、早速インタビューに入らせていただきます。大学時代の生活やゼミ、サークル活動、また、友人達の事をお聞かせ下さい。

A. ゼミは、「近世欧州経済史」というね、家名田先生という方で、初めて香川大学に来られてゼミを持たれた。ゼミの第1回、最初の先生で、まだ若い先生でゼミ生は、僕一人だった。大変面白い先生で、ある時、いわゆる官舎にいるので、君が僕の自宅に来るのと学校の研究室に来るのと、どっちがどっちなんだ、というのだね。似たようなもので確かに同じですね。という事で途中から、先生の自宅に行くようになった。冬はコタツに当たってね、しばしば夕方になって、カレーライスやご飯をご馳走になりましたね。あるいは、外に出て、残念ながら、先生はお酒が飲めない、僕はお酒が大好き。従って、僕はお酒をご馳走になり、食事もご馳走になった。徹底的にゼミの時間というの勉強だけでなく、色々な勉強をさせてもらいましたね。ユニークな授業だったと思いますね。

サークルはね、特にやったことはないが、経済学部に「印象」という文藝部が出している雑誌があり、ずっと続いていて、そこに僕も所属していた。そこに僕は発表したりしていた事もあります。当時、今でこそ一般的になっていますが、宮沢賢治に凝ってましてね。昭和30年に大学に入学して、34年卒業ですから、昭和30年の初め頃というのは、今のように宮沢賢治という人を知る人ぞ知るで、ほとんど知らない。全集なんかも今のように次から次へと出てきて、僕は、十字屋書店というのがあって、そこから確か6巻本の全集だったと思いますが、高松の古本屋で見つけて、2、000円だったと思います。お金がないので、アルバイトをして返すから、棚からどけておいてくれ、月500円ずつ払うから、という話し合いで、古本屋の親父が、よし分かった、という事で帰った。翌日、500円を持って行ったら、古本屋の親父が全部持って帰れと言うので、全額支払っていないので、それでは学生証を置いて帰りますと言ったら、お前、学生証というものは、簡単に人に渡すものではないと怒られた。全集は持って帰りました。勿論、全額支払いました。毎月500円ずつ、アルバイトをやっていましたから。それで、いくつかの単行本なんかもあったのですが、ほとんど出版されていなくて、それを徹底的に読み込みましたね。

大学3年生の時だったと思いますが、ひと夏、夏休みに入ると同時に、論文を書いた。400字詰原稿用紙で80枚書きました。「宮沢賢治試論」を「印象」という雑誌に発表した。そうすると、何人かの先生から、お前 ちょっと来いと言われ、掲示板に張
り紙があった。俺、何か悪い事をしたかなと思って、そうしたら、素晴らしい論文だ、もっと続けろという先生もいたり、家名田先生から、もうこれでゼミの論文は終わりだ。優だと。そこは又そこで、僕も変わっていて、いや、ゼミの論文はゼミの論文で、僕は、別のテーマを考えています。これは、趣味の問題で、趣味の論文ですから、そういう訳には行きませんと格好良く言って、後でしまったと思いました。ゼミの論文はゼミの論文で後で書きましたね。

その時の友人は何人かいましてね、その関係の、家名田先生ももう亡くなり、友人の最も親しかった小田君という男がいて、これも亡くなり、僕より5つか6つ年上だったと思いますね。当時、肺結というのが多かったのですね、戦後。それで、療養して、戻って来て、また大学に入って来る。こういうパターンが案外多かったですね。僕は、何か年が行ってるんだけれども何かフィーリングが合うなと思っていた男が小田君ですね。彼は詩を書いたりしていて、雑誌を作ったりして、一番親しい友人だったですかね。よく一緒に酒を飲みに行きましたね。お金がないので、ある飲み屋に行って、そこには小学校の子供がいて、男の子で宿題をなかなかしない。そこで、僕がおい、ちょっとこっちに来い、俺が教えてやる、もって来い、といって教えると只でお酒が飲める。時々、その子供が遊びに行ってていないとずっこけるんだ。今日は、お金が無いから帰るというと親父は、まあまあまあと言う。そうこうすると子供が帰って来る。宿題はあるかと聞くとあると言う。宿題はやったかと訊くとやってないという。勉強が嫌いなんだ。そこに座れ、で、カウンターの横に座らせて、こっちは飲んでいるんだよ。勿論、友人の小田君もいるんですよ。宿題は簡単なんですよ、おい、もっと無いのか、次はどこを習っているんだ、ここをやってみろというんだが、ここは宿題じゃないといって頑張るんだ。まあ、いいからやってみろ、というんで30分位教えると一杯、一杯だけじゃなく只になる。大変愉快な時代でしたね。

Q. どうして金融業界、富士銀行に入られたのですか?その思いを教えて下さい。

A. 高校時代の先輩で、そのお兄さんの弟が僕の友人で、そのお兄さんが富士銀行に入っていて、高松市内を歩いている時に、パタリと兄貴さんと会った。笠井君 どうしてる? 今度、就職です、と言ったら、富士銀行に入れ、という訳ね。当時は就職情報は、今ほどなかったので、自分で調べなければならなかった。あったのかもしれませんが、僕は、余り興味が無かったし、関心が無かったから知らない。一銀行で一番大きな所はどこですか、と訊いたら、そりゃ富士銀行だよ、君。一番大きい所に就職したいと思っていた。損保なら、東京海上、しかし、日銀も大きいですね、と言ったら、商業銀行と中央銀行を一緒にするなと怒られた。そういう事で富士銀行を受けた。金融をせねばならないとか、やりたいとか、どうだという発想は無かった。合っているかどうかも全く無関心で受けた。で、そのまま行った。

当時は、ちゃんとした試験があった。英語の日本語訳と論文。論文はね、「競争と独占」。論文は得意の分野、「競争と独占」だった。僕は、特別の才能を持っていて、原稿用紙をくれるわけね。そうするとフルに使って宜しい、最後の行で終わるという、僕の一つの特殊の才能、パッ、パッ、パッと3つ位に構想を立て、学校の時代に良く論文を書いていたので、最後の行が浮かぶ、これで締めようと。英語も不得意ではなかった。僕は、東京で受けていないんですね。京都から西は、京大、阪大、九大、香大など大阪でテストを受ける。京都から東は、東京で受ける。10月1日と決まっている。掛け持ちはできない。決まったら、そこで断、うろうろするなと。こういうルールがあった。10月1日、一発勝負ですね。英語でね、Ruleというコトバがある。ルールというのは、規則という意味と物差しという意味がある。物差しという用語、意味が分からないと解釈全部読めない。そこがポイントの英語だなと思った。試験が終わって、ルールとは何だと言っている、分からないと言っている京大とか阪大の連中がいて、あまり勉強をしていない連中だと思った。120人位受けて、9名入った。兄貴が伊藤忠にいて、その独身寮にいた2日の夜、採用通知の電話が来た。

Q. 当時、面接は無かったのですか?

A. 10月3日の日に面接があり、東京から何人かの役員が大阪に来て、大阪の事務所長という方がおられて、この方には、後にずいぶんお世話になった。なかなか僕の面接の回答は良かったと自分でも思う位自信があった。

Q. どのような事を聞かれたのですか?

A. 君、スポーツで野球が好きだと書いているね。当時、ちゃんとした飯も食えてないので、体重が48kgでガリガリだった。取締役の水野所長が、君、ポジションはどこをやっていたのかね。こう訊かれたので、キャッチャーです、と。他の人が君、そんな身体でキャッチャーができるのかね、と訊くので、キャッチャーというのは、身体でやるのではなく、頭でやるものです。とこう言ったら、水野さんが僕もキャッチャーなんだ。あれは、頭でやるもんだ。別の人が、何で頭なんだ!僕は、野球は9人でやる、全体を見渡すのは、キャッチャーしかいない。キャッチャーが全てをコントロールしている。だから頭がいる。実に上手い事言ったもんだと思いますね。

当時の面接は、重要な思想チェックがあった。君は戦争についてどう思うか。僕は、戦争反対です。君は共産党か、とこう来た訳。僕は、戦争反対と言ったら、何故、共産党ですか。人間が戦争を好きだという人類、人種はいると思いますか、と俺が質問するんだ。平和で戦争が無い社会、これが我々人類が望むべく姿ではないでしょうか、と言った。そしたらね、それは、ゾルレン(Sollen)の問題だね。Shud be そうあるべき事、いわば理想だね。すかさず、むこうがドイツ語できたので、こちらもドイツ語で、ザイン(Sein)をゾルレンに変えることは、重要な事ではないでしょうか。ザインというのは、現在ある現状をこうあるべきである。ゾルレン・理想に変えると言った。俺、よく言ったものだと思う。

私は、銀行業務というものは、全く分かりません。分かりませんが、何か目標を持って、チャレンジし、それをザイン化して行く、そのプロセスがずっと続くのが企業活動ではないですか。私は、銀行はどうなのか分かりませんが、分かりませんが私の頭の中では、そう思っています。誰か一人が、その通りだ、と言った。 なかなか高尚でしょう。

1 | 2
 
 
Copyright (C) 2010 Yushinkai Tokyo, Ohyama Kunihiro