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同窓会便り

本科20回生同期会と在学時代の思い出
風間達夫さん(本科20回)


今年も関東地区在住者の同期会を次のように開催した。

  日 時:平成22年4月23日(金)12時〜15時
  会 場:東京銀座「三笠会館」

出席者:5名(右記写真参照)
向かって左より、別所・風間・岡崎・野田・浅田

我々本科20回生の同期会は毎年4月に三笠会館で開催するのが恒例で、今年で11回目になる。夫々大正14年〜15年の生まれで、年齢も84〜85歳になり、今年の参加者は僅か5名であったが元気に顔を合わせ近況交換や思い出話を交わすことが出来た。初会(平成12年)から6回目までは10名以上の参加者がいて盛況であったが、その後他界したり、体調を崩す者達もでて年々少なくなってきているのが心残りである。いつも話題はどうしても健康談議が大半で、地域のボランティアー活動、趣味の近況や昔の思い出話などが交換される。
今回は、いつも話題の中でしみじみと語られる遥か昔の思い出話<戦時下の特殊な学生生活>の一端について触れてみたい。

在学当時の概要は次の通り:

時期(月数)
事項      


昭和18年4月
「高松高等商業学校」に入学

昭和18年4月〜19年3月(12ヶ月)
学業(第1学年) 紫雲寮生活(自宅通学者を除く)

昭和19年4月
「高松経済専門学校」に名称変更

昭和19年4月〜5月(2ヶ月)
学業(第2学年) 下宿生活

昭和19年6月〜7月中旬(1.5ヶ月)
学徒動員「淡路島軍用飛行場建設作業」

昭和19年7月中旬〜9月中旬(2ヶ月)
学業(第2学年) 下宿生活

昭和19年9月中旬〜20年8月中旬(11ヶ月)
学徒動員「九州・小倉陸軍造兵廠」 動員先から逐次出陣

昭和20年8月中旬
終戦、学徒動員打ち切り

昭和20年8月中旬〜9月(1.5ヶ月)
動員先、出陣先より逐次帰郷。卒業までの自宅待機

昭和20年9月
卒業(卒業証書が各自宅に郵送される)

合計:30ヶ月(2年6か月)

このように、戦時下で在学年限は2年6か月に短縮され、そのうち学業期間が前半分、軍需作業への動員期間が後半分という異例な時代であった。昭和18年4月の入学者は185名であったが、その後文化系学校に対する徴兵延期措置の撤廃により、学校及び動員先から逐次学徒出陣で兵役に赴き、終戦時に動員先の軍需工場に残った級友は僅か9名であった。

終戦後夫々軍隊や動員先からから学校へ戻ることもなく、逐次帰郷して待機していたが、2〜3か月後に、各自宅に卒業証書(昭和20年9月30日付)が郵送されてきただけで、何か侘しい卒業であった。
注)このことを学校側が配慮して、50年後の平成7年に改めて「卒業式」を挙行し再度「卒業証書」を授与してくれた。

在学中特に印象深かった事柄は次の通り。

◇寮生活
入学と同時に自宅通学者以外は強制的に紫雲寮に入寮させられ、小池寮監のもとで厳しい寮生活が始まった。50数名ずつ北・中・南の3寮(2人1部屋)に分けられ、上級生の各寮長・班長の指導の下、太鼓の合図で朝6時起床、廊下の床掃除、トイレ清掃,点呼などが義務つけられていた。寮の食事では足りず、時々連れだって近所の食堂に行き雑炊などで空腹を満たすことも屡々。消灯は9時?で、もとの電源を切られてしまうので、夜中の読み書きなどは懐中電灯や蝋燭が頼りで不便な生活を強いられ。
私は南寮の一角に陽気な岡崎君と同室。拘束された日々の中でも漫談部屋として何時も賑やかであったことが楽しい記憶として残っている。(写真参照:アコーデオンを弾いているのが筆者)
この紫雲寮が昭和20年の高松の空襲で校舎と共の消失してしまったことが残念である。

◇学校名の改称
昭和19年4月1日より「高松高等商業学校」は「高松経済専門学校」と改称された。当時公益優先・滅私奉公が叫ばれている折柄、商業は私利を追求するものとして「商」云う言葉が政府の方針で転換されたという。長い間親しまれてノーブルな感を伝える「高商」の呼び名が「経専」というゴロの悪い言葉に代わってしまったが、我々はしばらく「高商」の呼称で通した。

◇学生服の変更
黒い蛇腹の学帽と詰襟の服装にあこがれて入学したが、我々の学年からカーキ色の戦闘帽と国民服に変わってがっかりした。それでもみな夫々黒帽と黒服を別に持っていて、外出や帰郷の時にはそれに着替えたものである。

◇ドイツ語
英語の授業は敵国語であるとして学習時間が短縮され、それに代わって第2外国語の専攻科目としてドイツ語、中国語、マレー語の授業が割り当てられた。岡田先生とO・カーロー先生のドイツ語の授業はスパルタ式で厳しかったが、時折息抜きでドイツ民謡を教えてくれた。60余年経った今でもローレライ、菩提樹、野バラの数節を口ずさむことが出来るが、何か記憶の不思議さを感じる。

◇学徒動員と出陣
○淡路島の飛行場建設作業
炎天下朝から晩まで、トロッコで土を数百メートルも運搬し整地するという過酷な土木作業で、一カ月程経つと全員疲労の色が濃くなってきた。軍の幹部がこの状況を察して、或る日慰労のために野外レコードコンサートを催してくれた。夕暮れの広い野原に大型スピーカーから流れわたシューベルトの「軍隊行進曲」、未完成交響曲」、シュトラウスの「美しき青きドナウ」…など荘厳・軽快な快い響きが今でも耳の奥に残っている。殺伐とした日々の中まさに一服の清涼剤であった。

○小倉陸軍造兵廠
私は終戦時にこの造兵廠に最後まで居残った9名のうちの一人である。約1年近くにわたったこの動員生活は共に苦難に耐えて情熱を傾けた日々であり最も印象深い貴重な青春時代であった。★工場に着任後に次々と召集令状が追いかけてきて、別れを惜しみながら出陣していった級友、★弟や妹のような中学生・女学生達との和やかな交流、★手に息を吹きかけながら頑張った真冬の夜勤★帰郷列車が広島に途中停車した際に見た原爆で破壊された荒涼たる風景…などつい昨日のように思い出される。
B29邀撃用の20ミリ機関砲や小銃などを造っていたこの軍需工場が不思議に一度も空襲を受けたことがなく、千人近い動員者全員が無事だったことがこの上ない喜びである。

あれからもう60余年の歳月が流れた。現在、戦争を知らない人達は国民の70%になったという。国民全体が一つの目標に向かって、心を合わせ私欲を捨てて頑張った時代はもう夢物語になってしまったようである。戦後復興、高度成長期を経て時代は大きく変わり物の豊かな世の中になったが、心を何処かへ置き忘れてきたのではないかと思われる暗い世相が散見されるのが残念である。

以上

 
 
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