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又信会員A la Carte

「古寺巡礼」異聞
大南裕さん


昨年11月、久しぶりで又信会東京支部総会に出席した。その折「又信東京」をいただいた。この中に本科20回、風間さんの学徒動員当時の記述があった。また、引き続いて12月には「又信」が追うように送られてきた。この中には本科19回の学徒動員当時のことが多くの写真とともに記載されていた。これらの記事を見て当時のことが鮮烈に甦ってきた。実は、このことは私の中では戦後60数年封印してきたものなのである。

しかし、米寿を迎えて老い先幾ばくもない身、是非書き残しておきたいと思うようになった。当時のある若者の一部の心情を・・・・・。
また、一昨年4月、上野の国立博物館で阿修羅展があった。空前の観衆で一時間余りも長い行列ができた。私もその列につき、やっとの思いで60数年ぶりに阿修羅像に対面することができた。その昔の感激を新しくしたことはいうまでもない。街には、「大和古寺」「古寺めぐり」などの本が氾濫していた。改めてあの戦争中のことが執拗に思い出されてくるようになった。

その昭和18年ごろであろうか。私は高松の本屋で岩波版「古寺巡礼」を手に入れ、夢中で読んだ。しかし、この「古寺巡礼」は、内容もさることながら、この本そのものに特別な思いがあるのである。

私は当時、高松高商の二年生で、毎週土曜日の夕方には本屋めぐりを楽しみ、たいてい5.6冊の本を抱えて帰っていた。そのせいか、片原町の本屋の主(おやじ)と親しくなり、このおやじが私に好みの本を確保してくれていた。当時は、物資の統制がきびしく、新刊本の発行などは困難を極め、殊に岩波本などは高松中に二三冊しか来ない状態であったので、おやじは「○○教授とあなただけに」と大事そうに渡してくれたものだった。そのような一冊が、この和辻哲郎著「古寺巡礼」(1919年初版、岩波書店)だったように思う。

この本は、終戦後、電電公社での18回の転勤、8回の引越しにも連れ回していたが、 なぜか、最後の現住地への移転のさい取り紛れてしまった。現在、手許に残っているのは、和辻さんの日本古代文化(昭和17年12月10日、第6冊発行、岩波版)のみとなった。なお、和辻さんの「古寺巡礼」は、1982年発行の岩波版と、2003年発行の岩波文庫を現在持っているが、いずれも戦後買い入れたものである。中味はあまり読まないが。

ともあれ、戦時中の昭和18年当時、私は死生観に悩まされ続けていた。いずれ戦場に出て行かねばならない身。生きて帰れることはないだろう。しかし、一体何のために戦うのだ。人は「聖戦だ。天皇陛下のおんためだ。」という。天皇は現人神か。本当に神なのか。天皇も人間ではないか。同じ人間のために、どうして俺の身を捧げねばならないのか。

寮で同室の皇道派の伊本幸生君に筧さんの「神ながらの道」という数百頁に及ぶ神道の本を勧められた。一ヶ月もかかって取り組んだが、全く不可解であった。当時一日一冊のスピードで読んでいたが、こればかりは完全にお手上げであった。ともあれ、世の怪しげな聖戦論に混迷は深まるばかりであった。

丁度そのような時に、「古寺巡礼」が手に入ったのである。文字通り夢中で読んだ。仏様を単なる信仰の対象として見るのではなく、文化として芸術として、時には官能の美として捕らえた作者の透徹した記述には、ただ感動の外なかった。同時に、そのような感動を与えた仏像をこの目で確認したいと切実に思うようになった。この思いは、日に日に増大し、名状し難い憧憬に変わって行った。

こうして私は大和の古寺を訪ねて見れば、私の死生観にも何らかの解答を得られるのではないかと、ひそかに思うようになった。ところが、世情は益々風雲急を告げる情勢のようである。殊に、身辺のわが学友が一人、二人と忽然と消えてゆくのである。どうやら召集令状を受けているらしい。らいしというのは緘口令が敷かれている模様なのだ。となると、わが身も危ない。卒業式は、9月末と決まっていた。しかし、その前後に召集令状が来るかもしれない。ならば卒業式を素っぽかしても行かずばなるまい。切っ端つまった思いで直ちに奈良から斑鳩の里への大和路の旅に向かったのである。案内書も何もない。甚だ心許ない旅である。もとより、電車もバスもない。行き当たりばったりの歩きの旅である。読んだ「古寺巡礼」の記憶が頼りである。

若草山、春日大社を経て、奈良公園では木陰から鹿が出てきた。佇んでいると、忽ち二匹の鹿がすり寄ってきた。身動きもできない。どこからか写真屋さんがすかさずパチリとカメラにおさめた。この写真は今でも手許にあり私の一番の好みの一枚となった。二匹の鹿の肌に足腰をぎゅっとはさまれた時の温かみが今でも忘れられない。

興福寺の阿修羅像にも会うことができた。その憂愁を湛えた両性具有の童顔に不可思議な魅力を覚えた。二回、三回と像の周りをめぐり、飽くなき時を過した。

大和路も終わりに近づく斑鳩の里の茶店に寄り、柿などを食べていたところ、近くの寺院からであろうか、鐘の音が聞こえてきた。子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」そのままである。あたりは稲田の広がった田舎の風景で、もう夕焼色に染まっていた。あわてて法隆寺に急いだ。寺僧が大きな門を今、まさに閉めたばかりのところである。門前に息をきらして駆けつけた学生服の私を見ると、「閉門は5時ですよ」と、おだやかな顔で、ぎいっと再び思い門を開けてくれたのである。私一人のためである。

堂内はもうかなり薄暗くなっていた。わずかに夕方の淡い光が格子戸を通して数条差し込んでいた。その一隅に百済観音があった。この像の前に立って私は正に名状し難い感銘を覚えた。異国の少女のようなかすかな笑みを湛えた楚々としたたたずまい。清浄無垢な初々しいお顔は一体何をささやいているのであろうか。そこには美的感覚を超えた魂をゆさぶる幽艶さがあった。私は我を忘れて、ただただ吸い込まれるように佇むばかりであった。

急がねばならぬ。
次の間でかの有名な法隆寺壁画を見る。まさに圧巻である。この壁画は、その後炎上したから、これが文字どおり見納めだったのである。私の幸運を思わざるを得ない。

ともあれ、かの百済観音を見たときの衝撃は大きかった。そうして、この像を守るためなら、この命を捧げてもよい。この像のある山河を守るために戦うのだと覚悟したのである。不思議に親兄弟のことなどは全く思い浮かばなかった。

こうして何か吹っ切れた思いで、翌年二月召集令状を受け入隊、ソ満国境の虎林に赴いたのである

 
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